今回は「筋トレ」と「武士道」について考えてみました。
結論から言うと「武士道精神を体得するには筋トレをはじめろ」という話です。
武士道とは何か?
筋トレで武士道精神は体得できるのか?
を解説していきます。
なお、本文は男らしく「である調」で書きました!
【目次】
武士道精神と筋トレの関係
新渡戸稲造の名著『武士道』によると、武士道精神とは次の7つの要素からなる。
- 義
- 勇
- 仁
- 礼
- 誠
- 名誉
- 忠義
これらは全て筋トレとも密接に関連する要素であるが、今回は特に前半の5つについて考えてみたい。
筋トレ愛好家の読者にとっては、武士道と筋トレの共通点を自然に見いだせるはずである。
義とは
孟子が「義とは人の道なり」と説いたように、「義」とは善悪を判断する心であり、良心の規範であり、人格の根幹である。
人は義によって正しく生きることが出来、義のない人間は根のない木と同じである。
しかし、義の心を持っていたとしても、それを自身の言動として常に具現化できる人は多くない。
義を実践するための強さが「勇」である。
勇とは
「勇」とは、様々な困難を克服して「義」を実践するための屈強なる勇気である。
「勇」の動的形態は大胆な行動であり、「勇」の静的形態は冷静と平穏である。
真に「勇」を極めた人は常に穏やかである。
困難を恐れず、逆境に挫けず、苦難にも動じない。
その強さは、必然的に「寛容」にも繋がる。
謙信が信玄に塩を送ったように、宿敵ですらも「情け」をかける対象となる。
「勇」がこの境地に達した時、それは「仁」と呼ばれる
仁とは
「仁」とは、屈強なる「勇」から生まれる余裕に基づく寛容・優しさ・思いやりの心である。
信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうが良い
武田鉄矢が『贈る言葉』の中で歌ったこの歌詞こそ、仁が強さに裏打ちされたものであることを端的に表している。
心に弱さを持つものは、決してこのような覚悟は持てない。
また、遠藤周作の『沈黙』の中でも、若き宣教師が苦悩の末に「仁」に目覚める描写がある。
美しいもののために祈ることなど簡単だ。
醜いもののために祈るのは難しい。
だが、弱く醜い者のためにこそ祈るのが神父の勤めではないか。
「仁」は、自分が傷つくことなどいささかも恐れずに他人を思いやることの出来る強者のみが持つ徳であり、それゆえに仁は王者の徳と呼ばれる。
自分を愛してくれる人を愛することなど簡単である。
自分を裏切り、傷付け、愛してくれない相手すら愛せてこそ、真の「仁」と言える。
礼とは
「礼」とは、仁の心が作法として現れたものである。
礼儀作法は、ただ単に「そう決まっているから」行うだけでは貧弱である。
礼とは、相手を思いやる心が態度に表出したものでなければならない。
故に、仁の心を体得していなければ「礼」も体得出来ない。
義と仁に基づく真の礼を支えるのが、武士道の真髄である「誠」である。
誠とは
武士道は「誠」を至上の徳とし、命よりも大事なものと位置づけた。
嘘をつかない、ごまかさない
「誠」が無ければ礼も仁も茶番である。
言うまでもなく、嘘をついてしまうのは心の弱さ故であり、誠を貫くには心の強さが必要である。
そして、その心の強さを養うのは中世では武術の鍛錬であり、現代では筋トレである。
筋トレで武士道精神を育む
筋トレは、肉体の鍛錬である以上に精神の鍛錬である。
チームで行うスポーツとは違い、筋トレは孤独な戦いである。
しかも、競争すべき相手はいない。
敵は常に自分自身である。
自分自身の「意志」以外に自分を縛るものが何も無い中で、自分の意志のみで筋トレに励むのは並大抵のことではない。
苦痛に耐え、疲労に打ち勝ち、怠惰を克服してウェイトと向き合う。
筋トレこそが、現代における武士道の象徴である。
トレーニーはサムライであれ
武士道精神を尊ぶサムライは、単に武に猛り血に流行る戦闘員ではない。
武士道がサムライの至高の徳であった所以は、王者の徳たる「仁」の心を育んだからである。
「仁」を目指さない「蛮勇」は無意味であり無価値である。
「勇」は「仁」や「誠」を体得する手段としてはじめて意味を成す。
筋トレに励むトレーニーはこれを忘れてはならない。
筋力が付いたからと言って自信過剰になり、他人を不必要に威圧するようなものは、いくら筋力が強くても「弱者」である。
真の強者とは、「義」のために「勇」を用い、「勇」があるから「仁」の心を持ち、それゆえに「礼」に秀で「誠」を尊ぶサムライなのである。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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